
スマートフォンを使って利用する「無店舗型テレクラ」をメインの活動の場に移してからは、「個室」のテレクラという場所、もっと限定していうと「リンリンハウス」には、すっかり足を運ばなくなってしまいました。
自分はリンリンハウスではじめてテレクラを使った世代ですから、一時期は、ほぼ毎日のようにリンリンハウスに足を運んでいました。
個室のなかでジッと受話器を見つめて、素人女性からのコールが鳴るのを全身が焦げつくような期待とともにひたすら待っていたあの日々のことを、郷愁とともに回想したことも多くあります。
しかし、スマホ対応の無店舗型テレクラを使うようになって、リンリンハウスから足が遠のくにつれて、だんだんと、リンリンハウスを回想する期間というのも間遠になっていきましたし、正直なところ、つい最近までは、その存在をまるごと忘却していた状態にあったのは確かです。
もはや性的な魅力は奪われ、下半身の機能も閉経に近づきつつあるにも関わらず、性欲と生命力だけは旺盛で、個室テレクラの回線という砂丘に首まで埋まりながら、とりとめのないおしゃべりを続けることしかできなくなっている老婆からの電話回線ばかりがリンリンハウスを支配している、というのが、最後にリンリンハウスを使って「見切り」をつけたときの私の印象でした。
書割の黄色い看板が舞台を照らして唐突に夜が来る
そんな私が急にリンリンハウスのことを思い出し、こうして改めて考える機会が増えるようになったのは、上司からの理不尽な使令で自暴自棄になって都内の繁華街で飲みすぎた夜、みずからの嘔吐物で上物のスーツを汚しながら路上に横たわったことがきっかけでした。
生け垣のあいだを迷って歩きながら現実にはすでに存在しない呪われた生家に何度も何度もたどりついてしまう、というような悪夢をみたときの感覚と、泥酔して倒れながらふいに見上げた頭上にリンリンハウスの黄色い看板が光輝いているのがとつぜん眼に飛び込んできた感覚は、ひどく似ていたように思います。
身動きがとれなくなった側溝のなかから見上げたお月様のように、リンリンハウスの黄色い看板の途方もない瞬きは私の眼を激しく焦がしたのですし、それは、あやうく「美しい」という感覚が去来しかけるようなまばゆい光を放っていたのです。
アスファルトに頬をつけて身動きができなくなっていた私の眼に、リンリンハウスの入り口の前で二人の老人が座り込んで何やら話しあったり黙りこんでいる姿が飛び込んできました。
リンリンハウスの看板の照明を浴びてアスファルトの破片を噛みながら、私は「ああ、彼らこそ、リンリンハウスの現役のユーザーだ。私がリンリンハウスから離れてからもずっと、彼らはリンリンハウスとともに“共生”してきたのだし、あんなに壮健だったリンリンハウスのユーザーも、いまではすっかり年老いてしまった!」と呟いていました。
リンリンハウスを使う老人たちは、いまでも若く美しい女性たちとの出会いと即ハメの予感にとらわれていて、リンリンハウスの個室のなかでひたすらに待ち続けているのです。
リンリンハウス利用時間の終り近く、「若い素人女子は今日は来ない、しかし明日にはかならず来るだろう」というフロントの言葉を二人組のテレクラ老人が聞いている悲劇的な沈黙と、リンリンハウスの外から聞こえてくる無店舗テレクラユーザーの若者たちによる路上での即アポ成功の会話を想像して、私の眼は涙で痛み始めていました。