
これから先、何十年と時間が過ぎて、テレクラ女性がテレクラ老婆になり、私とテレクラ女性が待ち合わせをしたあの路上や、私とテレクラ女性がテレクラセックスをしたラブホテルの前をなにかのめぐり合わせで再び通りかかったとき、老婆になった彼女は、私とのテレクラセックスを思い出してくれるのだろうか。
それは、孫やひ孫などを連れて歩いている時間かもしれない。子供たちにも恵まれ、穏やかな老後を過ごしていた彼女に、人生の終わりにふと、テレクラで出会った行きずりの男とセックスをしたときの記憶が蘇る。
自分の子供たちを産み落とす前、自分がかつてテレクラ女性であり、見ず知らずの男とのセックスを楽しんでいたということを、隠蔽していたわけではないが、かといってわざわざ話すまでもないと考えていた彼女は、子育てに奔走し、夫と死別し、成長した子供たちが自分のもとを離れ、離れていった子供たちがやがて孫を連れて自分のもとを尋ねてくるという人生の長い旅路のなかで、テレクラのことなどすっかり忘れてしまっていた。
孫に手を引かれながら歩く路上で、老婆となった彼女のなかに、テレクラのツーショットダイヤルで自分をナンパしてきた男が来るのを待っていたときの記憶が、鉄柵にこしかけながら期待と不安が混濁する居心地の悪さのなかでテレクラ男の到来を待っていたあの時間が、不意におとずれる。
鉄柵に腰掛けながらボンヤリと眺めていたコンビニの光に、いま、まざまざと照らされるように、老婆は眼を細めてみせるだろう。彼女が見つめた光があった場所には、かつての光はなくなっている。
このあたりも、だいぶ風景が変わってしまったな、でも、たしかにここだった、ここでわたしはテレクラ男の来訪をじっと待っていたのだった、と物思いにふける老婆を、孫がいぶかるような視線でみあげて、おばあちゃん、どうしたの?と尋ねる。いや、なんでもないんだよ、さ、いこうか、といって老婆は思い出の場所から遠ざかる。それでも、意識のどこかで、まだテレクラの男性を待っていたときの自分の残滓のような気配が、そこで佇んでいるようにも感じられる。
テレクラ男とセックスの前に入った居酒屋や、ラブホテルなども、もう跡形もない。別のテナントが入っていたり、ビル自体が建て替えられていたりする。それを横目で眺めながら、孫に手を引かれる老婆は過ぎ去った時間に思いを馳せ、自分がいかに年老いてしまったか、そして、自分が人生の終盤に差し掛かっているということをいやおうなく実感する。
晩年の残り少ない時間のなかで、ふと思い出されたテレクラセックスの記憶は、ただそれをプレイしたという記憶として蘇るだけであって、その細部は曖昧としていたのだし、他のセックスの記憶とも混じり合っていて、具体的なことは正確には何も思い出せない。
だから、数十年まえに、そのころはまだ青年だった私がテレクラ女性の純白のパンティに強い興味を示したということや、三十代中盤のこれから下り坂に入ってはいく肉体の、それでも熟れた肉体として腐りかけの果実のような芳しい色香を放っていた彼女の乳房を私が揉みしだいたということ、それから、激しい手マンで何度も彼女に性的絶頂を与えたこと、騎乗位の姿勢になって自身の腕で乳房を挟み込んで押しつぶしながらペニスの味に彼女がたえず身悶えしていたこと、バックから激しくピストンをされて恥も外聞もなくあられもない嬌声をあげつづけ連続エクスタシーに到達していたことなどは、老婆となった彼女はもうはっきりとは思い出せなくなっているに違いない。
だけれども、たしかにテレクラセックスがあったということだけは思い出してしまった。もうしばらく考えることもなくなっていたセックスのことを。
思えば、あのときのテレクラセックスを最後にして、セックスの愉しみが少しずつ失われていき、やがて、いかめしい扉が重い音を立てて閉じられるようにして閉経するまでのあの寂しい時間があったのではないか、という老婆の喪失したものへ向けられた悲しみは、手をつないだ孫には伝わらないだろう。この孫にも、テレクラを利用してセックスをするような一日があるのだろうか。
そもそも、孫が成人女性になるまではまだまだ時間があるのだし、それ以前に、まだテレクラがあるのかどうかということさえ、テレクラ老婆にはわからないのだが。
バックで激しくテレクラ女性の膣奥を突きながら、膣内射精をした私は、おおよそこのようなことを考えながら射精後の余韻を溶かしていた。テレクラ女性は、まさか、ベッドに横たわってタバコをふかしているテレクラ男性が、彼女の老後について思いを馳せているなどとは思ってはいないだろう。
ラブホテルにチェックインするまえに入った居酒屋で、私はテレクラ女性に「どうしてテレクラを使おうと思ったんですか?」と尋ねた。テレクラ女性は、恥ずかしげに笑いながら「酔った勢いで」と答えて、それから、いや、本当のことを隠してもしょうがないだろう、といった表情を浮かべてから「人生の思い出に」といった。
私によるこのテレクラセックスによる膣内射精は、果たして、彼女にとって「人生の思い出」になりうる快楽をしっかりと与えられただろうか。
そもそも、テレクラセックスなんてものが「人生の思い出」になるというようなテレクラ女性の「人生」とやらは、いったいどんな「人生」なのだろうか。
医療用ベッドの上で人としての意識を失う直前、私は風前の灯火となった命のなかで「人生の思い出」としてテレクラセックスを求めてきた一人のテレクラ女性のことを唐突に思い出しながら、暗くなっていく意識のなかでゆるやかな最後の勃起をしはじめた自分を発見している。