
テレクラを使って二十年以上セックスしているが、自分のストライクゾーンというのは変わらない。
そのため、セックスをすることになるテレクラ女性の年齢だけがいつまでも変わらず、自分だけが年老いていくということが起こる。
自分はいつまで二十代半ばのテレクラ女性とセックスできるのだろうか、という不安がよぎるようになったのは、四十代も中盤に差し掛かり、体力の衰えや見た目の老化、精神の弾力の喪失などが、一度にまとめて折り重なるように自分にのしかかってくるのを実感するようになったからだろう。
もちろん、ツーショットダイヤルを利用し、女性を口説き落とすときや、待ち合わせ場所に向かうとき、また、テレクラ女性と出会ってラブホテルに移動してセックスをして、それから別れるまで、自分は、自分の老いであるとか不安などをなるべくひた隠しにし、おくびにも出さないようにしているのだが、この「無理」が、いつ、どのようにして自分に祟るものか、わかったものではない。
二十代半ばのテレクラ女性という惑星のまわりをまわりつづける衛星でしかない私は、二十代半ばのテレクラ女性の肉体の変わらぬ若々しさに対する驚嘆をますます深め、ずぶずぶと依存していく。
「あんたの年齢ならさ、もう身の丈にあった熟女を選びなさいよ、熟女専門テレクラだってあるんだから、あんたにはそこがお似合いだよ」なんていう「内なる声」が聞こえてくることもあるが、それを無視して二十代半ばのテレクラ女性ばかり狙い続けている自分は、どこか意地になっているところがあるのかもしれない。
だが、やはり、二十代半ばのテレクラ女性の肉体の魅力にふれると、自分はまだまだこの「若さ」を手放したくないということが、ほとんど確信に近い強度とともに再確認されるのだ。
片手で足りるほどの経験人数の二十代半ばのテレクラ女性の性体験について聞くだけでも、若返ったような錯覚をあたえてもらえるのだからたまらない。
そうだ、はじめてテレクラを使った二十代半ばの自分も、経験人数が片手で足りていたはず。それが、いまや。チリも積もればとはまさにこのことで、三桁の大台はすでに突破している。
あの頃のみずみずしさは、いまの自分にはもうない。だが、目の前のテレクラ女性には、それが現役のものとして、いまここのものとして、ある。あまりにも眩しい。
二十代半ばのテレクラ女性がスカートをたくしあげ、シルクの純白のパンティにくるまれたハリのあるケツを見せてくれるとき「自分はこれのために生きているのだ」ということを実感する。それは同時に「自分にこれがなくなったらどうやって生きていけばいいのか」という恐怖でもある。
私の手マンのテクニックなどは、この二十年間で研ぎ澄まされたものになっている。だけれども、二十代半ばの経験人数片手女性の女性器および彼女のリアクションは、まだ、それほどの熟練には達しておらず、ウブだ。
キスにだってためらいがある。自分から舌を絡ませ、絡ませた舌を可能な限り淫靡にコントロールしてみせることに躊躇がないというような、こなれた舌使いは彼女にはない。
永遠に触っていられるような彼女の裸体に触れながら、私は自分自身の皮膚の衰えを痛感するのである。潤いと乾き、滑らかさと粗さ、弾力と硬直の対比がいやおうなく突きつけられる。
全盛期ほどではない勃起力は、近々限界をむかえ、EDになるだろうか。だが、まだまだ二十代半ばのテレクラ女性を相手にして勃起し、フェラチオされながら勃起を維持しつづけている自分がいることに安堵している。
安堵どころか、挿入中は自分のペニスがまだまだ現役であるということに自信を持ってしまうほどで、その現役感は、目の前の二十代半ばのテレクラ女性の性的な力に喚起されてなんとか奮い起こしたものでしかなく、すでに自分ひとりの力ではないということは、見て見ぬ振りをする。
濃厚射精。無事に。とはいえ、かつては何回戦もできたはずのペニスが、ふたたびむくむくと勃起するためのインターバルの時間はどんどん長くなっていく。終焉は、やはり近いのか。
セックスを終えたあと、二十代半ばのテレクラ女性と欄干にもたれかかりながら東京都庁を眺めていた。屹立する男根のような都庁に自分は嫉妬した。だが、私のペニスの衰えのように、都庁が根本からぐにゃりと力を失って崩壊するということも、ありえるか、と想像して、苦い笑いを漏らした。
それからしばらく雑談して、テレクラ女性と別れたのだが、私のもとから去っていく彼女の後ろ姿は、セックスそれ自体が自分のもとから去っていく最後の後ろ姿であったのかもしれない。