
テレクラを使っているような素人女が「かわいすぎる」なんてことがあってはいけない。そんなふうに考えていた時期が私にもありました。
というのも、テレクラというのは、「そういうもの」なのですし、「そういうもの」と割り切って楽しむのが作法とされていたのですから、待ち合わせ場所に現れた素人女性を見た瞬間に「いかにもテレクラのレベルにあっている、かわいいともいえないし、かといってブサイクであるともいえない、なんとも微妙な、いや、絶妙なレベルの女がきたものだ」という感想を抱くことが一つの醍醐味であったのです。
ところが、ちかごろ、テレクラの生態系が乱れ、壊れ、こういった醍醐味を味わうことが少しずつ難しくなっている状態にあります。テレクラを通して性交渉に成功し、待ち合わせ場所にやってくる女の子の、「かわいすぎる女の子」である確率がどんどん高まっているのです。
始めは、前述したような「醍醐味」を尊重する気持ちもあって、「だめだ!こんなかわいい女の子がテレクラを使うなんてことがあってはならない!こんなかわいい女の子がテレクラにきてしまったら、テレクラが崩壊する可能性がある!」というような激烈な精神的拒否反応を示しながら、それでいて、目の前の女の子のあまりのかわいらしさに肉体は拒否反応を示すことができずフルボッキ、ということを何回か繰り返していました。
しかし、待ち合わせ場所にあらわれる「かわいい女の子」の頻度が高くなり、回数が増えていくごとに、私のなかにあった精神的拒否反応はどんどん薄まっていき、そして、すでに顕在化していた肉体的な歓喜はいよいよ強まり、それを隠す意味がなくなっていったのです。
「いや、かわいすぎるでしょ」という一言とともに、ニヤけながら勃起するということは、いまでは普通のことで、生態系が変わりはじめた最初のころに、なぜ「いや、ダメでしょ……」というニュアンスで「かわいすぎるでしょ……」などといって悲観的になっていたのか、今ではよくわからなくなっています。
明らかに喜ぶ理由しかないものを目の前にして、あからさまに喜ぶということ、これを我慢してはいけない。こんな当たり前のことに気づくまでに、私はどうやら途方もない迂回をしてしまったらしい。おそらくは、テレクラの使いすぎで、私は、正気を失っていたのでしょう。
テレクラの生態系が壊れ、かわいすぎる女の子が大量参入し、日常的にかわいらしい女の子とテレクラセックスするようになる日々が到来し、私のシコりすぎて左側に激しく湾曲したチンコのような「ねじくれた精神性」は修正されていくことになりました。
テレクラを使うことによって、自分はどこかで、自分を卑屈にし、低い位置に貶めようと思っていたのですし、「自分のような人間がかわいい女の子とセックスをしてはいけないのだ」と言い聞かせていたようなのです。
ところが、現在では「かわいすぎる女の子とセックスをしてもいいのだ。それも、テレクラを通して!」という喜びに満ちたテレクラセックスを繰り返しているのであって、私は現在、テレクラを使っていて過去最高に充実したセックスライフを送らせていただいています。
もちろん、現在の生態系はいつまで続くのかわからない。今回抱いたようなかわいすぎる女の子は、ある日とつぜん、テレクラという場所から一斉にいなくなることも考えられる。私はその日がくることに恐怖を抱いています。
ですが、その日はいずれやってくる、いや、やってくると想定したほうがいいでしょう。そのときは、また昔みたいに「テレクラにかわいい女の子なんていないのだから、このくらいのテレクラ女がちょうどいい」などとうそぶいて目の前のテレクラセックスを妥協案として楽しんでいた自分に戻ればいいだけのこと。
重要なのは、今の状況がどうであるかということで、おそらくはかつてなかった、そして、これからもないであろう「テレクラにかわいい女の子ばかりがきているこの季節」を全力で味わい、楽しみ尽くす以外のことは何もする必要がないのです。
正直なところ、体験談も「今日もかわいすぎるテレクラ女とセックスできた」以外には何も書くことがないのだし、その程度のテキストを生産する暇もありません。
なぜなら、そんな暇があるならば、テレクラにコールをしてかわいすぎる女の子に性交渉し、ラブホテルに連れ込んだほうがいいのであって、空前の黄金時代は、少しでも眼を離したとたんに、するりと手元から逃れて捕まえられないものになってしまうのですから。