
テレクラを利用して素人女性と頻繁にセックスするようになるまではこういったことはあまり考えることがなかったのだが、人の魅力というのはセックスをしてみないとわからんものだな、という思いが日に日に強くなっていくのを感じている。
むしろ、セックスというものを通さないでなされる他人に対する判断というものに疑問を挟み込みたくなることもしばしば。
たとえば、今回のテレクラ女性は、セックスをしていなかったときに比べて、セックスをしたあとでほとんど別人であるかのような魅力と輝きを私に感じさせるタイプのテレクラ女性であったのだが、「彼女とセックスをしたことがない誰かがする彼女に関する話など、とても聞いていることができないのではないか?」ということを思わされた。
人と話しているときに、「で、それはセックスをした相手なの?そうじゃないの?」とイライラしながら尋ねるクセがついてしまったのはまったくもってテレクラのせいである。
この悪癖は、今回のテレクラ女性のような「セックスを通して本来の魅力を発揮するタイプ」とのセックスによって、さらに補強され、根強いものになっていくだろう。
待ち合わせ場所にあらわれたテレクラ女性を見たときに「あれ、ちょっと地味かな、なんだかつまらなそうな顔してるし乗り気じゃないのかな」と思ったときの私は、テレクラ女性のことを「セックスしていない状態」で判断してしまっている。これはよくない。
セックスライフの充実にともなって「まだセックスをしていない相手に簡単に結論を与えることなかれ」ということが座右の銘となりつつある私は、第一印象としての「あれ?」をすぐに打ち消すことになるのだし、実際、テレクラ女性としたセックスは私の「あれ?」を吹き飛ばすような快楽を与えてくれたのだ。
「いまにもセックスが始まろうとしている」というセックス直前の段階、ラブホテルに入室したあたりから、テレクラ女性の雰囲気が劇的に変化し、待ち合わせ場所にあらわれたときとはほとんど別人になっていることに、私はめざとく気づいた。
密室に入るやいなや、途端に性的な態度を全面にだしてきて話し方や表情などが変わり始めていたテレクラ女性をみて、「これは、セックスが始まったら相当の衝撃が訪れるに違いないぞ」ということを覚悟しなければならなかったほど。
はらりはらりと服をはいでいくなかで明らかになった隠れ巨乳というあまりにも嬉しすぎる事実、そして、舌がからみつく濃厚キスのしびれるような快感、気を抜くとすぐに射精してしまいそうになる積極的かつ卓越したテクニックのフェラチオなどを通して、テレクラ女性は私の想像以上にどんどん魅力的になっていく。
セックスを通して快楽を深めていくこと、そして、セックスの快楽によって世俗的なストレスを解消することに大きな意義を見出しているテレクラ女性は、私の股間から生えたペニスを女性器という敏感な器官でもって精査し、「どこが一番気持ちいいか?」を探ることに余念がなかった。
その、セックスに貪欲な、一回一回のセックスから最大限の快楽をなんとか引き出そうとする姿勢は真剣であり、私の胸を打ち、勃起をさらに固くし、脊髄に走る快楽のシグナルをより強烈にする。
待ち合わせ場所にあらわれたときの退屈な表情は、セックス中の彼女からはまったく見出すことができなくなっていた。
おそらく、彼女はセックスをしていない時間にはまるで興味がなく、そうであるばかりか、セックスから離れている時間につねに絶望さえしているのかもしれなかった。
セックスが進行していくにつれて明るく朗らかになっていく彼女の表情と声は、私にも伝播し、彼女の喜びは私のものへとなっていく、二人の歓喜が同じ方向を目指し、ともに微笑みながら連帯するようになったとき、私も彼女も絶頂を迎えることになる。
セックスを終えてからの彼女は、全身から人を惹きつけてやまない途方もない輝きが溢れ出ていた。
セックスをすることがなかったならば、私はこのテレクラ女性のこういった輝きを知ることができなかったのである。彼女と出会った瞬間の私の「あれ?」は、彼女の輝きを知らないものだけが放つことになる「あれ?」であり、その判断が致命的な間違いであった、ということは、セックスを終えたいまの地点から見ることですでに明らかになっている。
禍々しいものがすべて身体から抜けて浄化されたかのような彼女の後ろ姿を見送りながら、「セックスをすることがない限り、人は、彼女のこういった後ろ姿を見ることもできず、彼女を誤解したまま彼女を過小評価するのだ」と思い、私は、セックスなしで判断される彼女の人生を憂い、より多くのセックスによって彼女の魅力が広く多くの人に知られることを祈った。