
テレクラセックスというのは驚くほどスムースに展開していく。コールが繋がり素人女性とのツーショットが始まってから性器の挿入と射精まで物事は滞りなく平凡に進行していく。
これがもし小説や映画だったならば、挿入までになにか起伏のある展開があったり、セックスというものになにか過剰な意味があってもよさそうなものだし、そういったものが意図的に捏造されもするのだが、テレクラという現実で起こるセックスは、とりたてて書く必要もないようなありふれたルートを、なぞり書きするようになぞり、おさまるべきマ○コにおさめるべきチ○コがたどり着くということになっていて、それ以上でもそれ以下でもない。
テレクラにおけるセックスには意味などなにもない。日常的な営みとしてただただセックスがある。テレクラセックスというのは日々の食事や眠りのようなものだ。だからこそ、意味があるともいえるだろうか。
しかし、テレクラ女性のブラウンに染められたショートボブが、窓からカーテン越しに差しこむ昼下がりの陽光に照らされて輝くあの反射光たちには、意味とは別の何かがあるのかもしれない。
あるいは、彼女のかたちのよい美しい乳房を包みこむブラジャーと、短く刈り込まれた陰毛を覆い隠していたパンティのそれぞれに燃える赤の誘惑に網膜を焼かれた瞬間の鮮烈な色彩的体験や、窓際に置かれたハンドバッグの沈黙については、なにか、テレクラセックスの重大なこととして、私に語ることを要請してくるような強い力があるようにも感じられる。
だが、私は、私の手によって揉みしだかれ形をかえた両乳房の運動を言葉で完璧に再現することができないということを知っているのだし、それほど大きくはないが柔らかな彼女の乳房に触れることで手のひらが受け取ったあの感触が、言葉に翻訳することが不可能な肉体言語であることに絶望している。
テレクラ女性のマ○コに顔を沈めて、鼻のあたまに切りそろえられた彼女の陰毛がちくちくと刺さるのを感じながら、激しくクンニリングスを施したときの、私が舌先でなめとった彼女のマ○コの味わいについては、ほとんど失語症状態になるほかないのだし、私の味蕾がマ○コの味をくみとるのとタイミングをあわせて韻を踏むように漏らされた彼女の喘ぎ声について、それを採譜して書き起こして再演可能な状態に記述することは到底できそうにない。
私に書けることは、結局のところ、今日もまたテレクラを使ってしまったということしかないだろう。そして、テレクラを使った結果として、とりたてて特筆すべきこともないセックスをしたのだ、と書き継ぐことだけだ。
そのありふれたセックスからもたらされた快楽については、それを実際に体験した人間にしかわからない。その場限りで生成してはすぐに後景に退いて過去へと流れていくというたぐいのものであるテレクラセックスを、想起して言葉にうつしかえる作業のなかで、テレクラセックスは完全に別のものに変わってしまうという断絶がある。
だから、私はテレクラセックスについて何も書くことができない。テレクラセックスについて何も語ることができない、という私のジレンマを知っていただくには、実際にテレクラを使ってテレクラセックスをしてもらうしかないだろう。
そして、途方にくれるはずだ。体験を言葉に変換することの不可能と無意味さのまえで立ち尽くし、思い出しオナニーすらできない自分に唖然とすることだけが、テレクラユーザーには許されている。この唖然とするばかりの場所から抜け出すためには、テレクラをふたたび利用してテレクラセックスという時間の渦中に繰り返し自分を投げ込む以外に解決策はない。
私からはただ、テレクラに登録してテレクラセックスを暮らしの一部にしてみてください、という提案を出すことしかできない。そして、あなたの性生活と私の性生活、あなたのテレクラセックスと私のテレクラセックスは、まったく無縁のまま、完全な個人的な体験として、誰にも語ることができない共有不能な孤独としてひっそりと深まっていくだけだろう。