
テレクラでおとなしい雰囲気の女と出会ったからといって、その表面的な印象に騙されてはいけない。
なぜなら、一見するとおとなしいテレクラ女性というのは、セックスの場面が到来するやいなや、いきなり獰猛な獣に変貌するのが常だからである。
今回待ち合わせ場所にあらわれたテレクラ女性も、「わたし、セックスのことなんてよくわからないんです」といったおぼこいフリをしたおどおどした様子で現れたが、私はあまり甘く見ないほうがいい。
そういったおどおどした態度の裏側で、目の前のテレクラユーザーの男性をいかにして自分のセックスによってさばくかを心の舌なめずりをしながら計算しているというのがテレクラ女というもので、そのような性的好奇心があるからこそ、テレクラ女性はテン年代も終わろいうという今でもテレクラを使い続けているのである。
テレクラ女性の化けの皮、テレクラ男性を油断させるためにかぶった羊の毛皮は、今回に関しては驚くほどスムーズに、あっけなくはぎとられることになった。
はぎとられる、というよりも、テレクラ女性がみずから脱いでしまったというのが正しいのではないか。
というのも、テレクラ女性は、私がズボンを脱ぎ、パンツをずりおろしてまろびだした私の陰茎を見た瞬間、極上のごちそうを目の前にした空腹の肉食動物だけが見せる眼に変貌し、隠しきれない興奮をダダ漏れにさせはじめたのである。
私ももういい歳になる。女性の肉体というものも、段々と見慣れてきたという実感がある。だから、テレクラ女性の乳房や尻や女性器など、裸になった女体を見たところで、「ああ、おっぱいか。それにお尻だし、マンコだな」と冷静な態度を保つことができる。いまさら童貞だった男子学生だったころのように「ヤバい!おっぱいだ!」となって、眼球が乳房に変貌してしまうような性的興奮の急激な上昇と、その上昇による正気の喪失に陥ることはない。
だというのに、目の前のテレクラ女性の爛々と輝いた好色的な眼差しとたれはじめた涎は一体何事だろうか。巨根なんてものはもうテレクラの利用によって見慣れている違いないのに、どうしてはじめてペニスを見たときのような喜びのピークに到達できるのだ。
あるテレクラ女性と話していたときに、屹立する高層ビルや鉄塔などがすべてチンポに見えてしまうという話を聞いたことがある。そして「そういった女性は私だけではないと思う」とそのテレクラ女性は言っていたものだが、なるほど、たしかにいま目の前で巨根に病的な関心を注いでいるテレクラ女性は、そういった女性のうちの一人であることは間違いない。
細胞のすべてが性欲に支配されているようなテレクラ女性が表面的におとなしい態度をとっているのは、あるいは、屹立するビルや鉄塔を見ただけでちんぽのことを連想してしまう自分が社会のなかで生きていくためのギリギリのラインを探るための生存戦略であるのかもしれない。
「セフレになれるサイズか」と尋ねたときの、テレクラ女性の食い気味の小刻みな首肯が忘れられない。「貪欲」という言葉がそのまま仕草に直結したかのような、そのはしたない仕草は、嫌いではない。いや、むしろ、テレクラを使うような私であるのだから、好きでさえある。
貪欲な仕草をしたあとのテレクラ女性は、それまでのおとなしい態度を自分でも思い出せなくなっているかのように積極的に性に陶酔するようになってしまった。巨大なペニスがテレクラ女性の演技の仮面をペニスの往復ビンタで破壊した瞬間であるといえるだろう。
性欲を隠そうともしなくなったテレクラ女性とのセックスについて書けることはそれほど多くはない。ただただ快楽を貪る二匹の獣がお互いを食い滅ぼそうとする激しい衝突があるばかりで、そういった動物的な状態は言葉というものが捨てられた世界であるからだ。
私はセックスを終えたあと、「セックスの素質があるね」とふざけて言ってみた。するとどうだろう、テレクラ女性は急に「恥じらい」の態度をとり、「え、そうですかね、私はわからないですけど」などとカマトトぶるのだから、まったく舐めている。
だが、私はテレクラ女性のこういった調子の良さにふれると、セックスなしでは生きていけないテレクラ女性と交流しているということを実感し、愉快な気持ちにもなるのである。