
セックスを目的にしてテレクラを使っている場合、もどかしいのは実際にセックスが開始されるまでの会話の時間だ。
もちろん、テレクラのツーショットダイヤルにこそ醍醐味を感じていて、セックス以上に会話を楽しむタイプのテレクラユーザーがいることは理解しているが、自分はそうではない。
できれば会話なしにセックスをしたいのであって、ツーショットダイヤルでの出会いの交渉やラブホテルに移動する前の食事の時間、ラブホテルに入室してからのセックスまでの雑談などは、正直なところ、すべてをすっ飛ばしてしまいたいと考えているのである。
かといって、割り切り目的でテレクラを利用しているテレクラ女が好きだというわけではない。やはり、割り切りなど考えてすらないような素人女とセックスしないことにはテレクラセックスをしたと思えないというのも事実。
そこで、一刻も早くセックスがしたい自分と、セックスまでにある程度のやりとりが必要なテレクラ女と出会いたい自分の間で葛藤が起こり、欲望がそれぞれに引き裂かれるということになる。
目の前のテレクラ女のファッションのこだわりなど微塵も興味がなく、即座に全裸にひんむいて全身をまさぐったり、あるいは自分の全身をまさぐってもらったり、ディープキスや乳首舐めをしたりされたり、フェラチオで奉仕してもらったりクンニリングスでイカせたり、パイズられたりパイズリ狭射したり、手マンしたり手コキされたり、生挿入からのピストンをしたり、中出ししたり顔射したり、セックスにまつわる様々なことをしたいということだけを考えているのだが、そういったことはおくびにも出さず、テレクラ女のつまらない会話につきあう自分がいる。
いてもたってもいられなくなりセックスをするまでテレクラ女の会話をどこまで我慢するかによってセックスの快楽が左右されるという側面もあるため、セックスがいますぐしたいという気持ちの寸止めを積極的に楽しんでいるのではないかと言われれば、確かにそうかもしれない。
セックスはテレクラ女の退屈な駄弁を我慢した自分に対して与えられるご褒美だとまで言ったらさすがに言いすぎだろうか。しかし、そのくらい傲慢なことを考えている自分がいることは否めない。
テレクラ女の濃厚な乳首舐めの快楽はたしかに称賛に値する素晴らしいテクニックでもって自分を痙攣させたのだが、この快楽を受取るにふさわしい退屈な会話の時間を自分は我慢したのだから、この快楽を自分が受け取るのは正当なことなのだ、などと考えているのはさすがにおぞましいが、それが私というテレクラユーザーの特徴なのだから仕方ない。
テレクラ女に躊躇なく中出しをしてしまう傾向があるのも、やはり、テレクラ女のつまらない会話に文句なくつきあってやったという自分の思い上がりゆえであるだろう。本来、そんなことは無許可中出しのエクスキューズにはなりえないというのに、まったく困った話である。
しかし、こういったことは、自分がテレクラ女に対して考えているだけでなく、テレクラ女が自分に対して抱いている考えでもないだろうか。
つまり、私のツーショットダイヤルやラブホテルの移動までの会話もたえずテレクラ女に裁かれ、退屈な話を我慢しているという感覚をテレクラ女に与え続けているかもしれないということだ。
こう考えていくと、つまらない話をしているのはお互い様で、私がセックスにおいて偉そうに振る舞い、何でもしていいと思い込む優位は消え去るようにも思われるのだが、「お互い様セックス」という捉え方もあるいは可能であるだろう。
お互いに退屈な話をしあったもの同士、もう二度と会うことも話すこともないのだから、せめてセックスくらいは最高のものにして解散しましょうよ、という無言の協定が私とテレクラ女の間で結ばれていると感じたことは一度や二度ではないのだし、今回のテレクラ女との関係もその例外ではないように思われる。
自分の退屈な話が、ちんぽ一本で解決し、帳消しになるというのであれば、これほどありがたい話はない。もしそうであるのならば、セックスというものだけで自分に対する我慢をなかったことにしてくれるテレクラ女の寛容さには感謝してもしきれないのではないか。
こういったことは、セックスが始まる前の会話、および、セックスが終わってから解散するまでの会話のなかでボンヤリと考えることであって、セックスの渦中にあるときは目の前のセックスにひたすら夢中であり、セックス以外のことはまったく考える暇もなく、極度にセックスに集中しているということは、私の名誉のために一応言っておく必要があるだろう。