
果たして、テレクラセックスに感想というのは必要なのだろうか。
最高のテレクラセックスがもし行われたのであれば、言葉などは不要である。
それどころか、全身をつつむ性的快楽のしびれで、何かしらまとまった思考をとること、そして、その思考にともなった声を発することも困難になる。テレクラセックスというのは、本来そういうものなのではないか。
そうと知りながら、テレクラセックスの相手になってくれたテレクラ女性にテレクラセックスの感想を求めてしまう自分がいるのであり、決してテレクラセックスの快楽には到達することがないテレクラセックスの感想をテレクラ女性に伝えてしまうのは、なぜなのだろうか。
テレクラ女性にテレクラセックスの感想を求めることをやめられない私は、自分が体験したテレクラセックスに自信がないのかもしれない。
プレイ直後に「どうだった?」と聞かれることになるテレクラ女性としても「この人は、自分のセックスに自信がないかわいそうな人なのね」と判断するのではないか。
一方で、感想を伝えるときの私は、「どうしてもこの性的快楽の素晴らしさ、テレクラセックスからもたらされた感動を伝えたい」という衝動にかられているのである。
だが、往々にして、感想というのは、それを伝えるものと、それを受け取るもの、感想の原因となる主体と、結果としての感想を伝えようとする主体との間に、齟齬と断絶が生じるものでもある。
自分にとって最高のテレクラセックスだったときに、熱に浮かされたように「最高のテレクラセックスだった」ということをなんとか証明しようと思って多弁を弄しているときに、そのテレクラセックスを作り出した当のテレクラ女性がキョトンとした顔をしていることは多い。
「私のセックスがそれほどすごいとは思いませんけど」と言われたり「私はそうでもなかったですけどね」なんて言われることのほうが多いくらいで、自分の感想の熱量と相手の感覚が一致するということはほとんどない。
感想を聞こうとし、そして、感想を伝えもする、という行為を続けているのは、もしかすると、この「断絶」や「共有の不可能性」を実感したいということなのかもしれない。
テレクラセックスをしている渦中にあるときの、「合一」に接近しつつある状態、言葉をかわさずとも二人同時に「絶頂」という目的に向かって進みつつある状態から引き離され、「会話」が始まると同時に、それがかりそめのものであり、幻想でしかなかったことを思い知らされる。この「痛感」こそを、他者との理解不可能性こそを、私は求めているのか。
私がセックス前にテレクラ女性に甘いものを振る舞い、その感想を聞くというプロセスをとるのは、「甘いもの」についてある程度は的確に、そして、ときに饒舌ともいえるほどの感想を伝えてくれるテレクラ女性が、ことテレクラセックスの感想となるとその自由闊達な舌の能力を奪われて言い淀み口ごもってしまう、そんな「落差」を楽しみたいからなのかもしれない。
もっというならば、テレクラ女性は、甘いものを食べたあとより、テレクラセックスの感想を伝えているときより、フェラチオをしているときのほうがよっぽど饒舌だし、批評的だ。
今回のテレクラ女性も、その例外ではなかった。フェラチオのときはあれほど巧みに動いた舌が、テレクラセックスの感想のときは、まるで麻痺してしまったかのようにまるで動こうとはしない。
一方で、クンニリングスのさいもほとんど舌を動かすことがない私は、テレクラセックスの感想となると、とめどなく溢れてくる奔流といった勢いを見せるのであって、テレクラ女性の「もうそれ以上テレクラセックスの感想を聞きたいとは思っていないのだが」という表情を見ていても、感想をしゃべることをやめられないのである。
フェラチオは早すぎる饒舌であり、テレクラセックスは遅すぎる饒舌といったところなのだろうか。私のテレクラセックスの感想は、フェラチオをしながら舌を使いまくっていたテレクラ女性からすると「何をそんな昔の話題に、いまになってそんなに興奮しながら反応しているのだ」というような感覚を与えるものでしかないのかもしれない。
そして、テレクラ女性がテレクラセックスの感想を聞かれるときにほとんど失語症のようになってしまうのは、「すでにテレクラセックスについては話し尽くしているのであって、いまさら何を話せばいいのか」という困惑があるからなのかもしれない。
私はテレクラセックスをプレイしている最中と、その事後における、この対話の困難を楽しむために、テレクラ女性に性交渉をしかけているのだろうと思う。
もちろん、こんな感想をテレクラ女性に伝えることはなく、その日のテレクラセックスにおいてテレクラ女性の広いおでこがいかに自分の性的興奮を高めてくれたか、というようなことばかりを私は熱弁し、空回りすることになるのではあるが。